Aさんとの作品制作の記述1

Aさんとの作品制作の記述1

 Aさんとは2025/10/16に初めてお会いして話した。Aさんが聞かせてくれた自分がつくりたい作品のはカラスのいれずみを彫りたいという話だった。

 
  カラスという鳥を彫りたいということと、黒いいれずみを彫りたいということの調和をAさんという人を通してみたような気がして惹きつけられた。Aさんの日常の中の「カラス」が伝わってきたような気がした。
 あくまでも自分の一視点からかもしれないけど、「黒いいれずみが彫りたい」という気持ちもよくわかるし、「カラス」のような「これ(対象)が彫りたい」という気持ちもよくわかる。それでも、その二つが調和するあり方で彫る人の内面に湧き上がっているというのは稀有というか、貴重なものを前にしたような気分になった。
 「黒いいれずみが彫りたい」という時、いわゆる抽象表現になることが多いと思う。自分のところへ相談へ来てくれる人の中では3割ぐらいだろうか。いれずみ・タトゥーを彫りたいという人全体に対してだとなかなか少数な感覚なのだと思う。好き好んでほとんど真っ黒に腕など身体を加工していく人たちだ。
 「これ(植物や動物や、概念とか、対象化されているもの)が彫りたい」という方が一般的だろう。この二つの立場はそれぞれ、「わからなくはないけど、自分はそれを一番大事にはしないかな」と言ったような位置付けをお互いの立ち位置を見たときにしているものだと思う。かなりの憶測だけど、前者は日常を線や動きや色彩など、抽象的な感覚で捉えている割合が高くて、後者は「自販機」「道路」「駐車場」のように観念的に捉えている割合が高いのではないだろうか。いや、本当にそうかもしれないなと言った程度なんだけど。

 Aさんからは、「この黒じゃなくて、この黒がいい」という自分がそれがいいと感じられる性質と応答しあっているような動的なところと、「カラスが好き」という静止している「カラス」という存在に対して湧き上がる愛着のようなものを感じる。自分も少しわかる気がするのだけど、そのような場合、「この黒ではなく、この黒」にしていくという、「黒」をイメージの向こう側へ放り投げて結果を確認し、自分も放り投げ返され、という連続の集積が、「カラス」という愛着が湧き上がる形を立ち上げるという奇跡のような現実を感じられるんじゃないだろうか。

 普通は、と言っていいかわからないけど、彫る人の内面ではどちらか一方が強いので、彫師がその人が希望したことの表面的な意味だけを切り取って貼り付けるというだけだったり、作家性が貧弱だと色彩や構図などの構成か、彫られる対象の方かのどちらかが取ってつけたような不必要さを感じさせてしまうという風になるのではないだろうか、と思う。
 なので対象の方に寄っている人に対しては色彩や構図というところで応答をして、抽象的な、美的感覚に寄っている人に対しては対象となる絵柄のアイディアで応答する、ということをして作品をよりよいものへとしていくということが「どのような作品をつくりたいかという話し合い」の一側面だと思う。やはり「カウンセリング」という言葉でこれを呼ぶのは違和感がある。日本では彫る人と彫師が相談することをカウンセリング、と呼ぶことが割と多い。

 のだけど、Aさんと話していると、Aさんの指示通りに施術を積み重ねていくことができれば、色彩や構図などの美的な構成と対象とが調和したよい作品が出来上がっていくような感覚になって、実際話した内容を振り返ってみてもこちらが「こちらとこちら、どちらが好きですか?」のような端的な質問をして、Aさんに答えてもらう、というやりとりがかなり多くなった。それを成立させているのは、「全身に彫りたい」という、力が流れる時の枝幅の太さみたいなものなんじゃないかと思った。

 
 では図案をつくっていこうということになるのだけど、何が必要になるのだろうか。というのも、今考えていることはAさんとの作品づくりに限ったことではなくて、自分の作品づくりの大枠を問い直すようなことを考えている。

 まずいれずみを彫るという時、人の身体が必ず必要になる。何かを図像化して、または図像自体を、時には偶然いれずみになるということもあるけれど、とにかく身体の皮膚に直接刻印したり、されたりする。別の言い方をすれば、皮膚の真皮組織の細胞内に顔料粒子が入りこむ。
 いれずみの図像と同じものを紙に描いたり、木に彫ったりしてもそれを「いれずみ」として扱うことはない。人の身体・皮膚と関係することで「いれずみ」になる。

 ではいれずみとして、人の身体に図像を彫り込もうと「どのような図像にしようか」と考える時が今まさにこの時なのだけど、これまでは「図案」というものをつくって、それを起点にして彫る人との合意をつくったり、いれずみとしての作品をつくっていくということをしていた。

 「図案」は紙であったり、画像であったり、平面として描かれる。
 「図案」を元にいれずみを彫るということは、この平面としての図案を、三次元の身体へ変換させるということになる。
 この時、平面で成立していたことが身体だと驚くほど成立しなくなる。だけど、身体でやろうとしているイメージを実際にやったらどうなるのか、という印象はある程度得られる。それも、これまでのいれずみ作品をつくってきた経験を通すことでようやくと言った程度だけど。

 彫る人と、彫師(いやもしかしたら彫師のというより自分の)との図案の捉え方の違いは大きい。彫る人としては当然「これはよい」と思えるものを彫りたい。しかし、服や車や、絵画作品と違って、これから手に入れようとするものを、手に入れるまえに実際に見て確かめるということができない。
 そうなった時、彫る前に絵で描いたものを見て、その良し悪しで判断するということが重要になる。実際に彫る作品の「下絵」として描かれた「図案」を見て、「これはよい」と感じられれば、彫ることができる。

 一方自分としては、三次元のいれずみという作品をつくる時、平面の「図案」がいかに役立たないかを身に染みて理解している。しかし、一度彫ったら変更や取り替えが不可能といういれずみの性質上、彫る人との間では「平面の図案」が重要になってしまう。
 自分からみると、少し歪な状況に思えてしまう時がある。いれずみは三次元の立体的な作品である。なので彫る人と彫師は、三次元で、もっと言えば身体というものとの関係の中で、どのような作品がよいのかということが重要になるということなら違和感がないのだが、実際には平面の図案が重要になってしまう。
 とはいえ、そんなことを言ってもどうしようもないように一見思える。なぜなら、では三次元の身体の上でどのような作品とするのがよいのかを彫る人と彫師で考えると言ったって、「じゃあとりあえず一度彫ってみましょう」というわけにもいかないからだ。

 それができないから、せめて「図案」というものを一度経由して「安心」を得てから進めるということは最善なように思える。とは言え、紙であれ画像であれ「図案」はいれずみではなく、皮膚や身体ではないので、「安心」した気になってもらうというようなものなのだが。実際のところ、彫ってみて、現実に見てみるまで彫師のこちらも、彫る人も、どのような印象の作品になるのかはわからないということが「いれずみ」というもののどうしようもない性質なのだと思う。そのことはいつも説明して、了承してもらった上で作品つくりをしているけど、それでもやはり彫る人としては「図案」で「安心」をつくりたくなる。

 ではそのようにして「図案」をつくる運びになったところで、しかし「図案」はあくまで作品自体ではなく、道具だという認識は彫師と彫る人の両者にある。「図案」を絵画作品として作り込むことはできない。なぜできないかというと、それをするためのお金がないからだ。仮に数十万円ほど、図案制作費用としてお金があれば、「図案」も作品として作り込んでいける。が、作ろうとしているのはいれずみであって、図案はそのための「あくまで道具」という認識のものとなっている。そう言った中で、図案制作費としてかけられる金額は一万円程度が感覚的に腑に落ちるところになってくるようだ。一万円も払えないという人もいるし、いてもおかしくないことだと思う。まず、お金は少なくて済むならその方がいい。

 そのようにして、「図案」をつくることになる。これを書いていて、納得してしまったことがある。
 できるだけよい作品をつくろうとして、そのためにどうすれば良いのか最善の方法を考えようとすると「図案」を事前に、入念につくるということになるが、実際、頭ひとつ抜けているような作品は「図案」がないところから生まれてきている、ということだ。
 この先どうなっていくのかわからない、という中で、「図案」を描いてイメージをつくり安心するのではなく、どうなっていくのかわからない中で肌に傷をつけて図像を彫り込み、治し、その続きとして続けられることをする。という頭のネジが緩んでいるようにも思えるがある意味最も正気な人が、言葉が失われるような作品を仕上げていることに気がついた。

 図案をつくり、作品にしていく時が、「イメージ」から「図案」。「図案」から「いれずみ」というものだとすれば、どうなるかわからないが、続けていく、という在り方の時は、「いれずみ」から「いれずみ」へ連続するようなものなのだと思う。そしてそれは「イメージ」があって「図案」がある時の制作よりも圧倒的に手間ひまがかかる。時間もかかるし、お金もかかっている。単にイメージや図案がないほうがいいという安直なことではないので、考えなしのノリだけのことを言っているわけではない。
 土壇場での試行錯誤や、火事場的な意識の積み重ねであり、その結果成立したものの伸びやかな連続が一線を画すいれずみとなっているのだと思う。
 それらは、一般的に「間違いがあってはならない」というイメージのいれずみとは違って、「間違い」「やり直し」とも捉えられるようなことを積極的に肯定していく。「図案」を持たないので、はじめに彫り込んだ図像は、全体にとってどのような意味を持つものなのか、しばらく進めてみなくてはわからない。しばらく進めてみると必然的な形が立ち現れてくるので、それを成立させるのだが、そうした時にじゃあ初めからその形を描けばここは二度手間を踏まずに済んだのではないかという捉え方もできるかもしれない。しかしまず、その形自体が、そのように進めなければつくれなかったというのと、決して無駄な二度手間ということではなくて、普通はしようとも思わない周りくどい施術の仕方から出る色の重なり合いが深みのある作品をつくることになる。そのようなことは、一般的なタトゥーイングや彫りものの視点から見れば「間違い」や「失敗」と捉え、先回りしてそれを未然に起こらないようにするための工夫として、そもそも図案(タトゥーデザイン)があるのだと思うが、その人たちは全く意に介さず、そういうことじゃないんで、と、「間違い」や「失敗」としては受け取らず、必要なこと、として進めていく。イメージは大切だけど、不安だからという動機で手放すことができない形のあるイメージは、現実との無数の応答の堆積で敷き詰められた作品に込められたような意識の厚みは出てこないような気がする。実際彫っている時のこちらの意識としても、「間違えていないか」だけの時は施術をしながら他のことを考えることができたり、散漫だ。

 既にたくさんかつて彫ったタトゥーが入った状態の身体を、改めてつくりなおすといういれずみつくりの中ではそういうものが生まれてくることが多いのではないだろうか。