そのような、「図案」を持たないいれずみづくりのあり方を、別の視点でもう少し考えてみる。
先日書いた、「Tさんとの作品制作の記述1」で出てきたことと繋げて考えてみる。

Tさんとの図案制作中で考えていたことは、「煙」ということと関係しながら、「何を描くのか」ということだった。
「描く」と言っても、色々ある。頭の中に何かを思い浮かべて、思い浮かべたそれを現実に描く、ということや、絵の具をキャンバスに投げつけたり、描いたというつもりはなかったけど、たまたまできていた何かの痕跡であったり。
とりわけその中でも、「何かを描こう」と意識して描こうとする時の、「何を描くのか」ということだ。例えば、「煙」を描くのか、「煙の形を通して感じられる何か」を描くのか。
「煙」を描く、というのはどういう意味かというと、自分がよく考えることは、「煙」という存在を描くということだ。上の図で言うと、右側の図が頭の中に思い浮かぶ。まず、「煙」というものをまだ描けたことがないという状態から出発するとする。しかし自分は、お香を焚いたりする時に出るあの「煙」を知っている。そのような自分の知っている「煙」を頼りに、キャンバス上に煙の絵を描こうとすると、「煙の絵」が出来上がる。しかしそれでは「煙の絵」が描けただけで、「煙」が描けたことにはならない。
以前、2022年から2024年までの2年間、板橋区の西高島平・三園というところで一軒家を借りて施術所をつくった。2年間という短い期間であったけど、その間は施術所を中心にした活動に集中していて、あの場所でいろいろなことを、かなり好きなようにやれた。ある意味自堕落で、身勝手なあり方だったけど多分、それまでの人生で一番自分のやりたいことをやりたいようにやった期間だったと思う。その結果、建物には自分の行為の痕跡がたくさん残ったり、何かをした後の残骸のようなものが押し入れに溜まっていったり、自分で決めた自分の生活、を取り巻くあらゆる行為の結果が蓄積されていった。
二年経って、高円寺に移転することになり引き払うことになった。一軒家の引っ越しはすごく大変で、とにかく家具を屋内から屋外に引っ張り出して粗大ゴミで出したり、捨てられなかったいろいろな物を可燃ごみで捨てたりした。当然家の中はしっちゃかめっちゃかになるのだが、驚きつつ、感動的だったのは、どれだけ家中のものを散乱させても、印象があまり変わらないということだった。
引っ越し作業のために家具の配置がめちゃくちゃになっていて、家中の収納という収納からものが吐き出され無秩序に吐き出されている状態なのに、どの視界で切り取っても、何かしらの施術所での記憶と結びついて、その時の続きのように見える。その時の続き、ということは、かつての施術所でなくなったというわけではないのだろうと感じられる。そうなった時、「三園の施術所」はどれだけ形を変えても、今ここに変わらずにあるという感じがしてくる。
こういうようなとき、「三園の施術所」が描けたというような感じがする。煙を描くとなると、「煙の絵」が描かれていると感じられるような状態ではなく、それは確かに絵ではあるのだけど、「煙」という存在が形を変えて現れているように感じられるものを目指したくなる。
一方、図の左側は、「煙の形を通じて感じられる何か」を描こうという時の意識のイメージだ。
ついさっき、「煙という存在が形を変えて現れているように感じられるもの」と説明した後だと、非常にわかりずらい感じがする。このわかりずらいというのが面白い。
「煙の形を通じて感じられる何か」と「煙という存在が形を変えて現れているように感じられる何か」というのは似ているようで、何というか、信仰の違いのようなものを感じる。
前者は、「何か」がまずあると捉えていて、後者は「煙という存在」があると捉えているというような感じがする。
「煙の形を通じて感じられる何か」を描こうという時、描こうとするのは「何か」であって、「煙」ということはあまり意識されていない。はじめから、目には見えないしそれ自体をイメージすることもできないけど、感覚に訴えてくる何かがある、というところから出発して、それを線や面や構成などで立ち出でてくるようにものをつくる。トライアンドエラーを繰り返して、「何か」を感じられるものができあがったら成功。
当然そこでできあがるものは物質的には煙ではない。しかし煙を見たときに感じられる何かと似たような質感の感覚を感じさせるものとして、目の前に現れることで、目に見える「煙」という形はあくまで一つの形であって、それ自体は空虚な外殻のような気がしてくる。その、形自体の空虚さが逆に実感されている感覚を鮮やかに感じさせる。
「煙を描く」という方は、「煙の存在」の「全体」は目に見えないけど、目の前の形自体が紛れもなく一つの煙の存在そのものの一断片であり、生き物感のような感覚を抱かせる。そして逆にということで言えば、「全体」の見えなさを強調する。それは「はかりしれなさ」のような感覚を生むものかもしれない。一方、「煙の形を通して感じられる何かを描く」という方も、「何か」自体はイメージすることも見ることもできないので、「全体」を失っている。そしてこちらも、「はかりしれなさ」という感覚を生む。
自分にとって、「煙を描く」ということと「何かを描く」ということの、「何をしようとするのか」という話は似ているようで、何か信仰の違いのような立場の違う認識のような感じがする。
「何をつくろうとするのか」として見方を変えると、「煙を通じて感じられる何か」と「煙という存在が形を変えて現れているように感じられる何か」
として、「形自体へのこだわらなさ」が似てくる。形にこだわるということは、「全体が現れる」ということにつながる。
「どのような感覚へ至りたいのか」と見方を変えると、「はかりしれない」感じ、ということで、両者がそこで一致する。全体が失われていながら、実感させる何かがあるということでもある。
ここまでが、先日書いたTさんの図案制作中に考えた内容だ。さて、今回はこれを、ここから「Aさんとの作品制作の記述1」の話に繋げてみる。
「Aさんとの作品制作の記述1」で書いた内容は、「言葉を失うような作品」と、「図案を持たない制作のあり方」ということについてだった。
では「図案を持たない制作のあり方」で起こる、「言葉を失うような」感覚とはどんなものなんだろうか。このことを言語化するために、「図像が見つかるとはどういうことか」ということを考えてみる。

図像が見つかるとはどういうことなのかを考えるとき、上の図を思い浮かべる。
左側は、「見えているものに線を引けていない状態」のイメージ。そのようにして一瞬何だかよくわからないものとしてみて、すぐに、かつ無意識に右側の「これ」としてみる。ということが起こっていると思う。
「これ」としてみるということは、「世界に対して自分で線を引く」ということだと思う。「”ここからここまで”が”これ”の形」として線が引けなければ、「これ」として見ることはできないと思う。

これをもう少し具体的な例で表す。

これはある時の施術時の皮膚を撮影したもので、ここでは先ほど書いたことのようにして、まだ見つけられていない図像を見つけるために、写真に写っているように「四角」というすでに見つけられている図像を規則的に敷き詰めるようにして彫っていくということをしていた。


このようにして、「四角」という図像を規則的に並べ、さらに隙間を埋めるようにして黒の塗りつぶしをつくるように図像を増やしていく。
そうすると、彫師の視点からは下のような図像を発見することができた。

はじめに四角を並べおえて、もう一度四角を敷き詰めるように彫るとき、隙間ができないように、確実に図像と図像の連続で黒い塗りつぶしをつくろうとしたため、少しはじめの四角に重なるように図像を彫り込んだことで、結果的に右側のような図像としての意識で彫り重ねた。


そうして、このようにして発見された図像が紋様化して新しい図案となる。この新しい図案をつくる中で、また「ここまでが、これ」が発見されれば、さらに新しい図像が発見され、図像から図案が生まれ、図案から図像が生まれていく。
この場合はより具合的に、「塗りつぶしをつくる」という制作行為の中で「ここまでが、これ」ということが見出され、「図像」が見つかった。
この先は、このような「図像が見つかる」ということを、「形を成立させる」と言い変えたい。

成立させた形(形1とする)を左側のように繰り返すと、新しい形(形Aとする)が成立する。この時、形1は形Aの構成要素の一つになる。
このような、形の、その形の構成要素という関係を、形と形態と言いたい。つまり、形Aとする、と言ったものを「形態A」と名付けたい。
(形1は形態Aの構成要素である)
9の図の左側のように、形1もまたその内部に別の形(形1aとする)を見出すことは可能で、そのように見た場合、形1もまた形1aによって構成された形態1とも見ることができる。
当たり前といえば当たり前のことを、わざわざ説明したようでもあるけど、こうしておくとこの先が言語化できるような気がする。
では、「図案をつくる」ということがどういうことかといえば、「形態A」のようなものをつくる、ということだと思う。
例えば、蛇と花と模様で図案をつくる、と言った時、組み合わされてつくられたものが「図案=形態A」で、「蛇」「花」「模様」はそれぞれ、形態Aを構成する形1ということになる。
では、前半の話に戻って、「煙を描く」ということを、形と形態という言葉を当てはめてもう一度考える。
「煙を描く」という時、描こうとするのは「煙という存在が形を変えて現れているように感じられる何か」だった。(※このかぎかっこ内の形という言葉は、比喩的な意味というか、先ほどまで考えていた形と形態の話の形という言葉とは違う用法で、話し言葉的に使っている。)
そういうものを描こうとする時でも、少なくとも物質的に、絵の具や支持体を使って描くのなら、目で見てとれる何かが描かれる。
その描かれた物質的なものを「形態A」と「形1」として見ることができる。
仮にうまくいって、描かれた物質的なものを見て、「煙の存在」を感じることに成功した場合、その、この世界にあるはずと思われる「煙の存在」自体を「形態A」とすることができる場合と、できない場合があるのだと思う。
一方、「煙の形を通じて感じられる何か」(※このかぎかっこ内の形という言葉は、比喩的な意味というか、先ほどまで考えていた形と形態の話の形という言葉とは違う用法で、話し言葉的に使っている。)では、「何か」を感じられるものを描こうとして、絵の具や支持体など、物質的なものを使って形を形態にしたり、操作を繰り返したり積み重ねたりしていく。
こちらの場合、うまくいって「何か」を感じられるものを描くことに成功した時、その何かを感じさせているものを、描かれている「形態A」だと確信できる場合と、できない場合があるのだと思う。
また、「形態A」を見出せないということもあるように思う。
