Aさんとの作品制作の記述3

Aさんとの作品制作の記述3

「対象を描く」ということ(煙を描く、というようなこと)の結果、形態Aとして対象の存在の形を成立させることができたと確信される場合と、形態Aとして形を成立させることはできないが対象の存在を確信することができる場合。と、
 「何かを描く」(煙の形を通して実感される何かを描く、というようなこと)ということの結果、何かが実感される形を成立させられた時にその何かの実感を媒介する対象として確信される形態Aが見出される場合と、何かが実感されているがそれを媒介する対象は判定できずに形態Aを見出すことができない場合。について考える。

 上のように四つの状態に分けたのだけど、そのどれも、「存在するはずのもの」として確信されるものとの関係を軸に考えられている。
 「対象を描く」ということの中で形態Aとして対象の存在の形を成立させることができたと確信される場合、は、「この世界に存在するはずの、とある何かの対象」を、正確に描き現すことができたことを確信するというようなイメージだ。その時の「とある何かの対象」は形態Aとして描き現されていて、その時の形態Aを構成する要素は「とある何かの対象」の構成要素ということになる。この場合、「とある何かの対象」は形態Aという成立させた形によって充全に描き現されたことになるので、あらゆる対象は描かれた形態Aを参照すれば「とある何かの対象」と同一かどうかの真/偽の判断ができる。この時、はじめに描かれた形態Aも一度「とある何かの対象」かどうかの判定にかけられている。そうすると、「とある何かの対象」は、形態Aのような現実に目で見える物質的なものに依存せずにはじめから世界のどこかに存在するはずのものとして想定されていることが前提になっていることになる。
 「対象を描く」、ということの中で確信される、はじめに「存在するはずのもの」は、「とある何かの対象」のように、形態Aのような現実に目に見える物質的なものに依存せずに世界に存在しているというような感じだ。
 そのような、「対象を描く」ということの中で確信される「存在するはずのもの」が、形態Aとして充全に描き現されたとはされないが、その存在自体は確信されるという場合は、その存在の構成要素として認めらるものの全てがどのような外延になるのかを確定させられていないので、他のあらゆる対象について、「とある何かの対象」の構成要素かどうかの判断ができない、という点は前者と違うが、それが物質的なものに依存せずに「存在するはずのもの」として存在することが確信されるところは同じだと思う。厳密に言えば、「依存せずに」という言い方は間違っているかもしれない。「はじめに」というのも、そう言えば自分としてはひとまず捉えやすいけれど、実際は「はじめに」と言っていいかも微妙だ。けど、今はまだそこを捉え切ることができないので、自分の未熟さを痛感しつつ、以下はできそこないとして続ける。また別で考えて、いずれ補完する。※この後、「はじめに」と言っていいかどうか微妙だ。ということが焦点になるのだけど。考えながら書いているからこうなるのか。この文章を書き終えることができたら、補完できるかもしれない。逆に言えば、いま考えていることの問いをより削り出すとしたら、「感覚は物質から立ち上がるのか、どうか」ということなのかもしれない。
 
 そんな感じで、この時の、「判断ができない」という状態になる、「対象を描く」ということの中での、形態Aとして形を成立させることはできないが対象の存在を確信することができる場合、の方が重要になってきそうなのだけど、この先はもう少し後に考えることにして、まずはもう一方の「何かを描く」ということについて「存在するはずのもの」として確信されるものとの関係を同じように自分の言葉で言語化する。

 「何かを描く」ということの中で、何かが実感される形を成立させられた時にその何かが実感できる対象として確信される形態Aが見出される場合、「実感された何か」を、「実感できたということ」は形態Aに依存していることになる。形態Aを介して実感された「何か」は、形態Aとの固有の関係で接続されているような存在というイメージ。その時、実感された固有の「何か」を、「自分の実感」として位置付ける時、「自分」の元へ実感としてその「何か」を媒介した対象という意味で形を成立させたものが形態Aだと確信される。その場合、目に見えるあらゆる対象が「何か」を媒介する対象かどうかの真/偽を判定することができる。
 このような思考の中では、「何か」は物質的な形態Aとは別の何かとして認識されている。その「何か」は、「形態Aを介して自分が実感している」と位置付けられる以上、目には見えないが「存在するはずのもの」として確信される。
 
 一方、「自分が実感している何か」として「存在するはずのもの」の存在が確信がされるが、それを媒介している対象がなんなのかわからない、つまり、形を成立させられないという場合もあると思う。冒頭の、「何かが実感されているがそれを媒介する対象は判定できずに形態Aを見出すことができない場合」と同じ意味になる。
 その場合、目に見えるあらゆる対象に対して「自分が実感している何か」を媒介しているものかどうかの真/偽の判定ができない。だが、その「自分が実感している何か」の存在は「存在するはずのもの」として要請されて確信されているという状態になる。

 このように、ここでの四つの場合で共通して関係していた、「存在するはずのもの」として要請されて確信される「何か」という存在を、aという記号で名付けて呼んでいきたい。

 自分が考え事をするとき、1930~60年代ごろに活躍したフランスの精神分析家・哲学者のジャックラカンという人のロジックを参考にしている。自分と精神分析やラカンとの関係は、いれずみ・タトゥーを彫るということの中で起こることが、精神分析のセッションに結構似ているということや、2023年春〜2025年春までの2年間、神保町の美学校というオルタナティブスクールで「アートに何ができるのか」という講座を受講していたのだが、そこでの講師が荒谷大輔さんという哲学者で、専門は精神分析とラカン研究をしている人で、そこで少し触れたと言った程度なのだが、荒谷さんには現在もお世話になっていて、たまに自分の話を聞いてもらい反応をもらっている。

講座「アートに何ができるのか〜次に来る「新しい経済圏」とアーティストの役割を考える」講師:荒谷大輔 | 美学校

この講座では、まず現在アートがおかれている社会的な状況を振り返って考えながら「ア…
bigakko.jp

 美学校の講座でも、この記事でここまで考えた内容のようなことをじっくり話し合っていた。自分の意識としては、その時の続きをやっているような感じだ。
 その時、講座では、ここで「何か」と言っているものを、ラカンの概念から「対象a」と呼んでいた。 このまま「何か」でもいいのだけど、他で「何か」という言葉を使いたいときに紛らわしくなるというのと、講座で話し合ったことの継続として話し合いやすいように、少し寄せて、「対象」はつけずに、単に「a」と呼びたい。
 自分一人で考えず、他の人と共有できる言葉にして議論していくことで自分のズレは修正できるように言語化していきたい。彫師という専門には難しいことだけど。

 さて、「対象を描く」ということの中で、形態Aとして形を成立させることはできないが対象の存在を確信することができる場合。というのは、
 形態Aとして形を成立させることはできないが「a」の存在を確信することができる場合。ということになる。
 同じように、「何かを描く」ということの中で、何かが実感されているがそれを媒介する対象は判定できずに形態Aを見出すことができない場合。というのは、「a」が実感されているがそれを媒介する対象は判定できずに形態Aを見出すことができない場合。ということになる。
 少し前にここがこの後重要になると書いていたところがここで、これからこれについて考える。

 「a」が確信されるということを思考の中で位置付けるとき、通常「自分がaを感覚している」という経験として位置付けられるのだと思う。まず、ここを起点に思考を進めると、「a」は「自分」ではないものであるということになる。そうすると、「a」を「自分」が感覚するために、媒介となる何かが想定される。それを見出した時、それは「a」を媒介する形が成立したということであり、形態Aが成立するということになる。
 一方、「a」が確信されているにもかかわらず、媒介している形を成立させることができず、形態Aが成立しないという時があると思うのだが、(これは個人的な体験から言っているので、あると思うのだがとしか言えないのだけど)それは果たしてどういうことなんだろう。

 そうなると、「a」だけが感覚されていて、確信されるが、「ここからそれを感じる」とは説明できない状態になるのだと思う。つまり、「a」を感覚しているけど、「この形態A」から感じると言い切れない。「これはaで、これはaではない」と言い切れなくなる状態で、「a」が感覚され、その存在が確信される。そのような感覚を、「言葉で言い表せない、はかりしれない感じ」と言い表してもあまり違和感がない。

 大自然を感じて、「、、、自然って、いいよね」としか言えなくなるとき、がこのような状態の時なんじゃないかと思う。そう言い表すと、「そういうことってあると思うのだけど」と個人的な体験としてしか言えないようなことでも、それなりに共有されている出来事なんじゃないかと思う。
 逆に、海を見て、「海って、青くて、入ると気持ちよくて、夏って感じがしていいよね。」と確信して言い切れる時は、「海のよさ」というような時の「a」は「青い」「入ると気持ち良い」「夏」ということを構成要素とした形態Aとして形が成立している状態といえる。これがどのような状態なのかということは上で書いたので、ここでの言い方に変えるだけにすると、海のよさを言葉で言い表せる状態、ということになる、だろうか。ここももう少しよく考える余地がある気がするので、今後の課題とするけど、少なくとも今ここで考えたいことはある程度書けたかと思う。

 よし、もう少しで考えたいことを一旦書き終わりそうな感じがしてきた。

 「言葉で言い表せない、はかりしれない感じ」という時、まず「a」を感覚し、形態Aを成立しかけるのだが、すぐに成立させられないことに気がつく。では他の要素を構成要素に新たに含み入れて、「自分」が感覚している「a」を媒介しているであろうはずの形態Aを成立させ切ろうとするのだが、再び失敗する。ということを繰り返して、形態Aの成立失敗と構成要素の複雑化という一連の現象が継続する最中で、同時に「a」は感覚され続ける、ということが起こっているのではないかと思う。というのが、今回主に言語化したかったことだ。
 感覚され続ける「a」は、形態Aとして成立させきれないので、言葉でいいあらわせない。
 そして、「対象を描く」であれ、「何かを描く」であれ、自分がつくりたい作品は、「言葉で言い表せない、はかりしれない感じ」をもつものなのだと思う。そのような、「a」の感覚が継続されながら、形態Aが成立しない現象を、「形態Aが機能しない」と言い表そうと思う。そしてそれはそのまま、「形態Aが機能しない」作品をつくりたい、ということになる。

 さて、そうすると大きな問題が二つ出てくる。まず一つは、ではそのような形態Aが機能しない作品をどうやったらつくれるのだろうかということ。
もう一つの問題というのが、ここでようやく、Aさんとの作品制作の記述1の、

できるだけよい作品をつくろうとして、そのためにどうすれば良いのか最善の方法を考えようとすると「図案」を事前に、入念につくるということになるが、実際、頭ひとつ抜けているような作品は「図案」がないところから生まれてきている、ということだ。

 この先どうなっていくのかわからない、という中で、「図案」を描いてイメージをつくり安心するのではなく、どうなっていくのかわからない中で肌に傷をつけて図像を彫り込み、治し、その続きとして続けられることをする。という頭のネジが緩んでいるようにも思えるがある意味最も正気な人が、言葉が失われるような作品を仕上げていることに気がついた。

Aさんとの作品制作の記述1

  という話に繋がる。

 「図案をつくる」ということは、「形態Aを成立させる」ということに他ならない。
 しかし、自分がつくりたい作品は形態Aが機能しないものである。それは「図案がない」ということになる。
 でも、彫る人本人としては、「頭のネジが緩んでいるようにも思えるがある意味最も正気な少数の人々」を除いて、一般的には「図案がない」のに、「いれずみを彫る」ということは不安である。「気に入らなかった」となったらどうしよう、と、不安になるので、「これなら大丈夫そうだ」と安心するために事前に「図案」で確認しておきたい、というのはごくもっともな感覚だとも思う。

 形態Aが機能しない作品をつくりたいのだが、図案をつくるということは形態Aを機能させるということである。しかしいれずみという作品において図案は彫る人の安心のために(必ずしもそれだけではもちろんないけど問題としてはここを強調する)極めて重要である。ということがもう一つの大きな問題だ。どうしよう。