
Rtさんの一回目の施術。はじめに話し合いに来てくれた時は、すでに彫ってあるものを全くなかったようにするわけではなく、できるだけ調和させるようにしながら、新しくいれずみを腕全体に彫りたいということで来てくれた。ではどのような絵柄を新しく彫っていくのかという話をした。どのようなものをつくりたいのかという話をした。Rtさんは、抽象的な、純粋に美的なものの強度が高いものにしたいと言っていた。
少し前まで私は、美的な感覚を描こうとする時、抽象的な図像のみで表すことにこだわっていた。意味や物語から図像を選び出して、それを美しく描くのではなくて、意味や物語とは別に感じ取ることができる抽象的な図像のみを描くように意識していた。しかしその結果、不思議なことにどうしても葉っぱや花、木、岩、土、山、空、鳥、人、、、と、意味があるもの(概念化可能なもの)を描きたくなってしまうということが起こった。単純に、それらを「葉っぱや花」として見ずに、形や線、色としてだけ見ても、意識して抽象表現だけで描き現そうとするにはなかなか難しい豊かさがあると思う。
その話を聞いてもらって、美的なものの強度を高めるために、抽象的な図像だけを使おうとするのではなくて、対象のはっきりしている概念化されたものも同時に描くのはどうかという話に、一度なった。それで、Rtさんの思いの中から浮かんできたこととして、蝶を彫ろうかという話になっていったのだけど、なかなかすぐには蝶と抽象図像を同時に描こうとした時、そこに必然的な関係が感じられる形で成り立たせることは難しかった。
仮に、平面の絵で、蝶と抽象で調和をつくれたとしても、それをいれずみとして再現しようとすると、平面と身体の間に横たわるずれによって、どうしても平面のようにはいかないこと、が出てきてしまうと思う。それでもなお、平面を再現しようとする、ということにこだわれば、そこで出てきたずれは、しょうがないもの、できればない方が良いもの、として受け取っていくことになってしまうと思う。
そうではなくて、事前に確認するということができないいれずみというものを受け入れて、その上でイメージの力は広く炸裂させる。その結果、現実が返してきた応答、つまり実際に身体に彫って、いれずみとして見た時の感覚を受けて、またイメージの力を使う。そのような、想像上の完成に向かっていくのではなく、固定的なイメージを手放して、彫りながらつくる、ということを続けていきたい。なので、今この場で、想像上で蝶と抽象図像を成り立たせることができないなら、そこは彫りながらつくるということにしませんか、つまり、これからつくるいれずみの全体の構成自体をヒマにさせておきませんか、という話をしようと思って、もう一度Rtさんを彫っている場所に呼んだ。
その時は、はじめに話した時から一ヶ月半ほど期間が空いていた。Rtさんが来てくれると、やっぱり、抽象図像だけでつくっていきたいと言った。蝶など、対象のはっきりしているものを彫ると飽きちゃいそうだから。それに、抽象だけの方が私らしいなと感じるから、と言った。
それを受けて、抽象図像のみで構成するにしても、やはり全体のイメージは固定させてしまわずに、彫りながらつくるということをしませんかと私は言った。Rtさんは、そっちの方がいいと言ってくれた。
そうして、この日は第一回目の施術をした。
混合線を腕に描き出して、それへの関係線として描こうとするものとして、抽象的な図像を彫り起こしていく。
この、混合線と関係線によって図像を身体に起こすと、その人に似ているような感じがする線や形になる。それというのは、身体から描き出した線を、身体に描くということは、そこにその身体があるということをありありと感じさせることになるんじゃないかということを思った。実際、いつだって、そこにそれがある、ということを感じることはできるのだけど、やはりつい観念的に見てしまって、価値判断をしてしまったり、その結果余分なものと思えてくるものがあると削ぎ落とそうとしたりする。身体から描き出した線を身体に描くということは、観念になる手前の、そこにあるそれと、子供の時の景色のような感覚にとどまることが少し起こってるんじゃないかと思った。それで、そこから逆転して、線や形が、その人に似ている感じがすると受け取るんじゃないだろうかと思った。(身体との間にあらわしたものを、写真に撮ると平面になるので、実際に見た時のように感じることはできなくなる。)