形態Aが機能しない作品をつくりたいのだが、図案をつくるということは形態Aを機能させるということである。しかしいれずみという作品において図案は彫る人の安心のために(必ずしもそれだけではないけど問題という意味ではここを強調する)極めて重要である。
という問題について考える。
まず思いつく解決策の一つは、実績をつくり、それでもって安心をしてもらうということ。
自分がつくりたいという、形態Aが機能しないいれずみの作品はこれまで三つつくれたと思っている。それは、意識してできたわけではなかった。今回のことを書き始めたはじめに書いたように、今回考えている一連のことは自分の制作観を根本から問い直して変容させるものだった。
今までは、形態Aを洗練させていくこと、形態Aをいかに高い強度で成立させることができるかという考えで制作をしていた。なので、「図案をつくる」ということをとても入念にやっていた。
しかし、今つくりたいと思っている形態Aが機能しない作品というものの、これまでにできた三つというのは、彫る人本人に引っ張ってもらって、その時の自分の意識とは別に、自分にとってはある意味偶然的にできたようなものだと思っている。
つまり3人の人のいれずみ制作で形態Aが機能しない作品ができたのだけど、その3人は「頭のネジが緩んでいるように思えるがある意味最も正気な人」だった。
その3人との「どのような作品にするか」の話し合いの時、形態Aを成立させて、それをできるかぎり洗練させて図案をつくるということが重要という話を自分からはした。いれずみ制作は彫師に作品の作家性が大きく委ねられる一方、どのような作品にしたいのかの意思決定は彫る人の側にあるという特徴がある。なので、彫る人に自分が最も良いと思える形態Aをまずは選んで、その洗練を彫師のこちらが引き受けるという形式を進めた。自分としても、その時は、というよりごく最近までそれが最善に思えた。
そうして、その3人の時も図案をつくった。しかし、施術を進めていく中でその人たちはみんな、「やっぱりこうしたい」という、図案の構成を突き崩すような希望をしはじめた。自分はとても途方に暮れた。それをしたら図案通りにいかなくなるので、どうなっていくかわからないという制作になるし、いい作品になることを保証することもできなくなるけど、いいんですか?と重々確認した。
その人たちはみんな、「間違えるとか失敗するとか、そういうことじゃないんで、どうなるかわからないで大丈夫です。」といった態度だった。彫る人本人がそういうなら仕方がないと思い、「やっぱりこうしたい」に向き合った。「これ、どうしたらいいんだ」というような、無茶振りに感じられた。とても困ったし、すごい意識の量が必要になった。
実際そのようにして施術を進めていくようになった序盤は、「これ、どうなっちゃうんだろう」とこちらが不安になったりもした。けど、本人たちは変わらずに気にせずに通い続けてくれた。その3人の図案のことはすごく考えたし、施術の進捗具合も遅かった。彫っても彫っても全然進んでいる感じがしない感じだった。
でもある時に、「ここに、これだ!!!」みたいな形が成立して、その要素を含み入れたら、それまでの火事場的意識の積み重ねに調和が発生して、めきめきと音を立てて成立し切ることのない動いている形態が種子の果皮を崩してあらわれ出てきた。その後は、他の要素の強度も施術が進むごとに上がってくるし、その制作の最中で発見された形もますますよくなってきて、やがてどこまでがある要素で、どこまでがある要素なのかわからないような感じになってきて、はかりしれなさをもつような作品となることができた。
安心できるイメージを思い描いて、それを間違えないように実現させていくだけという中では、むしろ無い方がよいと事前に想定される火事場。その火事場への応答の中での「ある種の意識」の蓄積が作品に厚みを与えるのだなと思わされる。
実際の行為、現実との応答をせずに、自分のイメージだけでは、そのような、「ここに、これだ!!!」となる形を成立させることは極めて困難なのだと思う。それが契機となって、やがて要素の境界は混ざり合っていき、形態Aが機能しなくなる。となると、要素である形1、2、3、、、など諸々の形の成立が機能しないということが、形態Aが機能しないということなのだろうか。そのことと、「ここに、これだ」の形が発生するということは何か関係がある気がする。これも後ほど補完として考えよう。
そのような契機となる形は、平面での図案制作ではなく、「彫り続ける」という「いれずみ」にとって直接的な行為の連続の最中に立ち上がってくるのではないだろうか。
その3人の作品をじっくり振り返っていたのが先週のこと。そこで、自分は形態Aが機能しないものをつくりたいのだな、と思った。
ともあれ、ここまで自分としては偶然できた形態Aが機能しない作品は、どうなるかわからないけど、それでよい、それがよい、という「頭のネジが緩んでいると思われるがある意味最も正気な少数の人々」に引っ張ってもらうようにして自分のイメージを越えることでできた。
その人たちは、失敗とか間違いとか、というより、いい作品ができるまでとにかく続ける。そしてその時は必ず来る、という態度だった。実際、すごく手間ひまがかかった。自分のようなタイプからしたら、どうなるかわからなくていい、その方がいい、というのはネジが緩んでいるのではないかと思うのだが、なぜ不安にならないのだろうと、なぜ不安に耐えられるのだろうと思うのだが、本人たちとしては、失敗するかもとか間違うかもとか、というより、やるのならこうするしかないだろう、こうでしかできないだろう、という感覚なのだと思う。
今回で自分も形態Aが機能しない作品をつくれた、という経験をもって、ようやくその感覚に一歩近づけたと思う。
そのような、「正気な人」はおそらくまだいるし、今後も来てくれるのではないかと思う。
なので、問題解決策としてはまず、「正気な人」と形態Aが機能しない作品をつくっていき、実績としての作品を積み重ねる。そうすると、その作品を見て「こんな感じがいい」という人が現れると思う。実際、すでに数名、その3人の作品を見て来てくれている。その人が、「図案がないと不安だ」という人だった時、しかし平面で図案をつくり、それを再現するという仕方では形態Aが機能しない作品にはならないかもしれないということを説明して、その上で、実際そのようにしてつくった作品があれば、「正気じゃないように思えるが、実際それでいい作品ができているからそうなのかもしれない」と、安心できる、、、のだろうか。
まあ、すでにこのように計画や問題解決を図っているような時点で自分はまだまだなのかもしれない。「正気な人」たちから言わせれば、そういうことは、どうすればいいのかということは、その時にわかるよ、ということなのかもしれない。
問題解決ということで言えば、「タトゥーデザイン」というように、タトゥー・いれずみの図案/デザインは何を問題解決しているのだろうか。Aさんとの作品制作の記述1でも少し書いたけど、図案は平面である。作品としてつくろうとするいれずみは身体という三次元のものである。もちろん、全く役立たないということではないし、なんの問題も解決しないということではない。タバコ箱程度の大きさなど比較的小さい大きさで、平面性が獲得されやすいものや、図案の内容によっては十分デザイン(問題解決)として機能することもたくさんあると思う。図案がない、ということこそ、問題解決になってないどころか問題自体であるという捉え方も恐らく正しいし、一般的であると思う。しかし、図案は平面なので、そこでどれだけ安心が得られても、いれずみを彫るということは、彫ってみないとどのようなものになるのかわからないというどうしようもなく逃れられない性質のものであるということを覆い隠すことをしないようにしたいと思う。
そして、はかりしれないような作品となることを目指す時、はじめから「問題解決」「効率化」「合理化」という構えなのでは、自分のイメージにおさまってしまい、はかりしれなさを生めないんじゃないだろうか。
そうそう、それでも、形態Aが機能しない作品にしたい、というのと、形態Aが機能する作品にしたい、というのは対等だと思う。どちらの方が優れているという話ではないと思う。あらゆる、「こうしたい」は対等だ。残酷なことでもある。あくまで自分の「こうしたい」の話であって、他の人の「こうしたい」を評価することにつながる話じゃない。
不安だから図案が必要になる、みたいな言い方を強調したけど、別に全然、不安とかじゃないけど、普通に図案があった方がいい、という側面もあると思う。というよりやはりそちらの方が一般的だ。
形態Aが機能する作品にしたいのであれば、図案をつくり、イメージを明確にして、いれずみを彫るということの逃れられない性質は引き受けた上で施術に踏み切るということが最善だと思う。
例えば「カルチャー」的なタトゥー、メモリアルタトゥー、記念的なタトゥーや、古くは出自表明の機能を備えたイレズミなどがそうだと思う。「なんとなく彫りたいと思った」というのもすごく面白いものだと思う。
「はかりしれなさ」とは違う作品の目指すべき方向性というのは多様だし、混乱するようなことを書けば、目に見えるいれずみとして形態Aが機能していても、「はかりしれなさ」に到達することはあり得ると思う。というのは、例えばそのタトゥー・いれずみを起点にして、記憶や出来事といった、物質的な意味での「いれずみ」とは違う性質のものの側で、形態Aが機能しなくなるからだ。関係性の美学みたいな方向になるのだろうか。
その辺りが、いれずみの、美術の本当に面白いところだなと思う。ただそういった事柄の中では、「彫師」が関与できることはあまりなくなってくるかもしれない。いや、例えば仲のいい人たちで森から木の皮や落ち葉を採集して、そこからインクを自分たちでつくり、その人たち同士で彫り合う、ということをすれば「彫師」的な立ち位置が強く関与しながらも、図像としては形態Aが機能しているが記憶や出来事、関係性などでの形態Aが機能しないという、感動的な「いれずみを彫る」という出来事は起こりそうだ。
とにかく、今回考えた視点だけではなくてまだまだ様々な見方ができるということと、自分が見えていない視点が様々あるということだと思う。
まあ、そんな感じで、自分がやりたいこととして、形態Aが機能しない作品をつくる上での、彫る人との合意成立的な問題は、そんな感じでなんとかなるだろう。
それよりも面白いのは、「ではそのような形態Aが機能しない作品をどうやったらつくれるのだろうかということ」の方だ。
