「ではそのような形態Aが機能しない作品をどうやったらつくれるのだろうか」ということについて考える。
「Aさんとの作品制作の記述4」で、偶然形態Aが機能しない作品ができた時の経緯を振り返った文章をもう一度読む。
自分がつくりたいという、形態Aが機能しないいれずみの作品はこれまで三つつくれたと思っている。それは、意識してできたわけではなかった。今回のことを書き始めたはじめに書いたように、今回考えている一連のことは自分の制作観を根本から問い直して変容させるものだった。
今までは、形態Aを洗練させていくこと、形態Aをいかに高い強度で成立させることができるかという考えで制作をしていた。なので、「図案をつくる」ということをとても入念にやっていた。
しかし、今つくりたいと思っている形態Aが機能しない作品というものの、これまでにできた三つというのは、彫る人本人に引っ張ってもらって、その時の自分の意識とは別に、自分にとってはある意味偶然的にできたようなものだと思っている。
つまり3人の人のいれずみ制作で形態Aが機能しない作品ができたのだけど、その3人は「頭のネジが緩んでいるように思えるがある意味最も正気な人」だった。
その3人との「どのような作品にするか」の話し合いの時、形態Aを成立させて、それをできるかぎり洗練させて図案をつくるということが重要という話を自分からはした。いれずみ制作は彫師に作品の作家性が大きく委ねられる一方、どのような作品にしたいのかの意思決定は彫る人の側にあるという特徴がある。なので、彫る人に自分が最も良いと思える形態Aをまずは選んで、その洗練を彫師のこちらが引き受けるという形式を進めた。自分としても、その時は、というよりごく最近までそれが最善に思えた。
そうして、その3人の時も図案をつくった。しかし、施術を進めていく中でその人たちはみんな、「やっぱりこうしたい」という、図案の構成を突き崩すような希望をしはじめた。自分はとても途方に暮れた。それをしたら図案通りにいかなくなるので、どうなっていくかわからないという制作になるし、いい作品になることを保証することもできなくなるけど、いいんですか?と重々確認した。
その人たちはみんな、「間違えるとか失敗するとか、そういうことじゃないんで、どうなるかわからないで大丈夫です。」といった態度だった。彫る人本人がそういうなら仕方がないと思い、「やっぱりこうしたい」に向き合った。「これ、どうしたらいいんだ」というような、無茶振りに感じられた。とても困ったし、すごい意識の量が必要になった。
実際そのようにして施術を進めていくようになった序盤は、「これ、どうなっちゃうんだろう」とこちらが不安になったりもした。けど、本人たちは変わらずに気にせずに通い続けてくれた。その3人の図案のことはすごく考えたし、施術の進捗具合も遅かった。彫っても彫っても全然進んでいる感じがしない感じだった。
でもある時に、「ここに、これだ!!!」みたいな形が成立して、その要素を含み入れたら、それまでの火事場的意識の積み重ねに調和が発生して、めきめきと音を立てて成立し切ることのない動いている形態が種子の果皮を崩してあらわれ出てきた。その後は、他の要素の強度も施術が進むごとに上がってくるし、その制作の最中で発見された形もますますよくなってきて、やがてどこまでがある要素で、どこまでがある要素なのかわからないような感じになってきて、はかりしれなさをもつような作品となることができた。
安心できるイメージを思い描いて、それを間違えないように実現させていくだけという中では、むしろ無い方がよいと事前に想定される火事場。その火事場への応答の中での「ある種の意識」の蓄積が作品に厚みを与えるのだなと思わされる。
Aさんとの作品制作の記述4
ということで、火事場への応答の中で蓄積される「ある種の意識」を作品に持たせることが重要なのではないかというところに取り掛かってみる。
その時自分には「火事場」という風に受け取られたが、その3人の人たちにとっては「火事場」という言い方は少し違和感があって、もう少し穏やかな何かなのではないかと思う。むしろ、その人たちにとっては形態Aが機能しているような状態は不自然で違和感があり、居心地の悪いもので、形態Aが機能していない状態の方が穏やかなものなのではないかなとも思う。
「ある種の意識」を向けた結果蓄積される形のことを、「新しい形」と一度書いてみる。みずみずしい新芽のようなものだろうか。それは、「形が成立する」ということと大きくは同じような現象なのだと思うけど、通常の「形が成立する」ということは「自分」の中の、「自分の経験」として位置付けた過去からやってくる。「新しい形」は現在、今その場で目の前のものから生成され、「現在」からみれば、極端に言えば「過去」である「自分」のもとへ差し向けられる。のかもしれない。
それで言えば、目に映ったものを、「自分の経験」として位置付けられた過去を参照するという回路で、あらゆるように形にしているという状態は、灰色の、想像的な世界で、現実味がなく、規模が小さく感じられ、そのまま死んでいくことを受け入れられなくなるような、まだ見ぬ将来への想像、夢や理想で補いたくなるような状態なのかもしれない。
目に映ったものを、まず、「自分の経験」として位置付け、それを参照し、形を成立させる、という時、何か、決定的なずれが起こるような気がする。
「新たな形」は、目の前の現実から生成される。それを「自分」として位置付けるか、「自分の経験」として位置付けるかというのがありながら、「自分の経験」として位置付けるなら、「新しい経験」になるのだろう。
「自分の経験」として位置付けられた過去を参照するという回路で成立させた形は、あたりまえだけど既に知っている形であり、「新しい経験」として、「自分の経験」の中に位置付けられることはない。ような気がする。ここもまた考えたい。
さて、形態Aが機能しない作品をつくるには、「新しい形」を積み重ねることが重要そうだという
