Hさんの作品

Hさんの作品

 あまり考えずに、なんとなくいいなと思う単一の図柄を少しづつ増やすように彫っていったところ、このような腕になった。ある程度形式としても揃えられているし、構成もそこまで悪いというわけではないけど、すごくいいとは思えていないので、より良くするために何かいい発展の仕方はないでしょうかというご依頼。

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 とはいえ、腕全体を黒くするということは抵抗感があるということで、現状のイレズミをほとんど見えなくするという方法はできない。話し合いのはじめはなかなか、現状のイレズミとこれからつくるイレズミの関係を相互に良い響きとして成立させることができる形式をお互い思いつけず、どうしたものかと途方に暮れていた。バスキアの文字やマークとイラストが混ざり合った絵画作品を見て、ひとまずこの方向でスケッチを作ってみましょうという、妥協的な雰囲気を共有しながら試しにペイントソフトで現状の腕の写真画像の上から人物の顔を配置してみると、とてもいい響きが現れて驚いた。

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2025/06/23−1

 少し考えて、この図案の響きとして「描かれているもの」がなんなのか、おそらくこういうことではないだろうかという説明を思いついた。
 まず、構成している要素を簡単に言葉にすると、はっきりとした線で彫られた文字やイラスト(既存のタトゥー群)、人物、線などの抽象図像 といったところ。

 簡単に、描かれている内容を言葉にすると、「はっきりとした線で彫られた文字やイラスト」が、「人物から連なる線などの抽象図像」で見えづらくなっている。といった感じ。何が彫られているのか、解りづらくなっているとも言えそうだ。

 図案を見た時、意識的にというよりは反射的に人物にまず目がいく。そして同時に、描かれてるものが「人の顔だな」と、反射的に意味に還元される。一方、既存のイレズミである文字やイラストは、見えにくくなっているので、「文字のように見えるものが人の後ろに描かれているけど、見えづらくて何が描かれているかはわからない」という感覚になる。何が彫られているのか(何を意味しているのか)を見出すには、意識的に注目していかなければいけない。
 この、反射的に意味に還元される部分と、意識的に意味を見出そうとしなければ何が描かれているのかわからないという、「差」がこの図案には描かれているということなんじゃないだろうか。「距離」や「間」といってもいいかもしれない。

 例えば、最近の別のご依頼の関係で触れることになったビアズリーのイラストの場合は、「線」という構成要素が、今回、意識と意味の関係で起こったことと同じような感覚を生み出しているように思う。

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2025/06/23−2

 この絵の持つ心地よさの、今回取り上げたい要素に焦点を当てて、ミニマルにすると、

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2025/06/23−3
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2025/06/23−4

 こうなるんじゃないだろうか。
 この二つの線は、それぞれ別々の線として認識していて、その二つが持つ絶妙な力の抜け方や緊張感、それでいてぴったりと安定しているような、異なる感覚を行き来できるような感じが心地いい。

 この二つの線の関係のようなことが、「反射的に意味に還元される対象(顔)」と、「意識して意味を見出そうとしなければ何が描かれているかわからないが、何かしらの意味がそこにあると思われる対象(見えずらい文字など)」でも起こっているんじゃないだろうか。

 二つの線の場合は、目に見えるものなのでわかりやすいけど、今回の場合は意識の動きとして起こっていて、目で見えないことなのでより不思議な感じがする。
 「何かが彫られているけど、何が彫られているかわからない感じが好き」ということを話す依頼者さんはこれまで割とたくさんいた。自分もその魅力を感じていたが、なぜ、どのように良いのかということが言語化できずにいた。今回で腑に落ちた感じがする。
 言語化できたということは、より多様な展開として再現が可能になる。

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2025/06/23−5

 今回注目した異なる意識の動きという要素を強調したものとして絵も描いてみた。やはり再現ができたように思う。反射的に意味に還元される顔(つまり、これを顔ではない何かとしてみようとすることはなかなか難しい)と、何か意味を持っていることは確かだが、何が意味されているかはよくみないとわからない、おそらく文字であろうもの、の二つの関係が心地いい。

 少しそれるけど、「意味」という言葉は、例えば、「りんご」と言ったら、りんごの絵を連想できるということ。そのことを、意味を持っている、ということとして言っています。
 イレズミ・タトゥーの話では、よく「意味があるタトゥー」と言ったような言い回しで、「このタトゥーはかくかくしかじかで、自分にとって何々で、これこれこのような経緯があって、、、」と言ったような、語られるようなタトゥーを、「意味があるタトゥー」と言われることが多い気がしている。けど、それは「物語」や「ストーリー」があるタトゥー、とか、その人の「意義」が表明されているタトゥー、として「意味」という言葉と使い分けたい。
 その上でということではあるけど、意味がある=価値がある。意味がない=ノリで彫った、や、価値がない、では全くないと思う。私は意味がないタトゥーを彫ることが多いけど、意味がない=信念がない、ノリ、なんとなく、では全くやっていなくて、彫師の中ではかなり厳密にやっている方だと思っている。

 今回作った図案(2025/06/23−1)では、異なる意識の動きとは別に、異なる線の関係による心地よさという要素も入っている。
 それによって作品に心地よい動きが生まれるけど、見えづらくなっている要素の部分で意識が滞る。同時に、反射的に意味に還元される顔が鮮やかに見える。そのような見ている側の状態が、心地の良い線によって動かされる。それによって、「引っ張られているような」みたいなまた別の心地よい感覚が生まれている気がする。この部分は今後またじっくり考えてみたい。

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2025/06/23−6

 今日は1回目の施術を行なった。まだかなり途中の段階なので、そこまで良い響きは生まれていないけど、それでもすでに、無事に絵や画面で起こったことが再現できそうな予感がしている。

 ここまで言葉にしたように、この作品では「見えづらくなっている文字など」と「顔」が、それぞれ別々のものとして描かれているという認識を発生させることが重要だった。2025/06/23ー4で、「小ぶりの線と大ぶりの線の、2本の線が描かれている」と認識するように、「顔と、なんだか見えづらいけど、おそらく文字か何か、が描かれている」という認識を発生させることが重要だった。

 そのために、顔を構成する線は、すでに彫られている文字やイラストのはっきりと太い線と差を持たせることが必要だった。
 なので、ぼやぼやした輪郭で、太さが不揃いの太い線や、擦れがあるような細い線で顔を構成した。

 一般的に、グローバルタトゥー(タトゥースタジオと呼ばれるような場所で彫られる、近代以降に成立したイレズミの形式)では、「均一の濃さ、太さの、デジタルのような線」が「よい線」とされる。実際に技術的に高度なのはそのような線なのだと思う。タトゥースタジオと呼ばれる場所で働くタトゥーアーティスト、彫師たちは、確かな技術を持っていることを誇示するために(誇示だけではないとも思うけど)、そのような「よい線」を引き、プロモーションする。

 そして「カバーアップ」と呼ばれる、気に入らなくなったタトゥーを上から覆うように追加の施術をして別の図柄に見せるときは、技術的に未熟な線である「擦れていたり、滲んでいて太さが不揃いな線」を、「均一な綺麗な線」で彫り直すということが多い。

 そんな中今回は、「はっきりとした太い線」で彫られたタトゥー群をより良くするために、一般的によくないとされる「擦れていたり、太さが不揃いだったりする線」を上から覆い被せた。それは確かな必要さがあってやったことだった。それでいてとても新鮮で面白かった。
 それに今回の形式は、気に入らない何かを覆い隠すということだけではなくて、すでに入っていたものも重要な要素として構成の一部になりながら、作品全体をより良い響きに向かわせている。
 かつてのタトゥー群の痕跡を残しながら、抽象化させることで、そのときの記憶や経験、気分と言ったものも構成要素になっている。このような形式だと、「カバーアップ」と言い表すことに違和感が出てくる。

 今回発見できた、すでに彫られている図柄の意味を意識的に見出そうとしなければわからない程度にまで隠しつつ(だけど全て隠さないということが重要)反射的に意味に還元される図柄を追加する(すでに彫られている図柄と差がよく出る質感で表現することが重要)ということをして、同時に心地の良い線も構成要素として入れるというこの形式は、Hさんのように、「あまり考えずに、なんとなくいいなと思う単一の図柄を少しづつ増やすように彫っていったところ、このような腕になった。ある程度形式としても揃えられているし、構成もそこまで悪いというわけではないけど、すごくいいとは思えていないので、より良くするために何かいい発展の仕方はないでしょうか」という状況にいる人にとてもおすすめしたい有用な形式になったと思う。ぜひ、私への依頼じゃなくても、さまざまな場所で使ってくれると嬉しいです。

 もう少し言えば、今回Hさんが顔の図柄を彫った動機は、「意味に還元されづらい図柄と、反射的に意味に還元される図柄のコントラストが鮮やかでいいなと思ったから」ということになる。このことは、話し合いの中で、実際にこの言葉でHさんと共有することができた。

 今回のこの形式を再現するためにとても重要な要素は、「反射的に意味に還元される図柄」を強調することだ。そうなると、それとして使える図柄は限られてくる。複雑だったり、普段見慣れていないような図柄(動物とか)では、既存のタトゥー群の上から被せたときに何が彫られているのか意識しないとわからない状況になってしまう。それだと成立しない。既存のタトゥー群と被さっていても反射的に何が彫られているかわかる図柄として、「顔」は最適だった。

 Hさんという人の「これまで」みたいなことと、「顔」ということの関わりはなかった。自分はこれまで、かくかくしかじかで、これこれこのようなものが好きで、何々な経験があり、今はこのようなことを大事だと思っているので、「顔」を彫りたいのです。といったような、「自分の物語や価値観を象徴する」ようなことでは全くなかった。

 この形式を考えるとき、このように、例えば「顔」のように、「自分と関係のない図柄」を採用しないといけない、ということで、いいなとは思うけど自分が彫ろうとは思えないということがよく起こると思う。でも、この形式には「自分はこれまでかくかくしかじかで、、、」といったような「物語」はなくても、自分との深い関わりはしっかりとあるのだと思う。
 「物語」や「意味」がなくても、価値があるということはもちろんある。「この線をみて、いいなと思った」というのは、ほとんどその人の魂のようなものなんじゃないだろうか。その線や構成が、イレズミとしてからだに刻印されるというのは素晴らしいなと思う。だけど私は、魂や精神みたいなものとしてイメージされる何かは、身体と重なり合っていて不可分な何かだと考えているので、魂という言い方も難しいなと思う。どのような線をみたときに「いいな」と思うかは、その人の身体に蓄積された経験に大きく影響をうけるんじゃないだろうか。つまり、やはり、だからこそ「この線をみた。良いなと思った」ということは、その人と深く関係のあることなんだと思う。
「自分はこれまでかくかくしかじかで、、、」という物語や価値観としての自分というアイデンティティを表明することだけがイレズミの図柄選びにおける価値なのではなくて、「顔とよくわからなくなっている文字など という構成をみたときに、コントラストが鮮やかでいいなと思った」という、「自分」が立ち上がる作品を彫るということもとても素晴らしいことだと思う。もはやそのときに「アイデンティティ」的な自分を持つ必要はない、というか、自己像はなんだってよくて、作品の方が自分なんじゃないだろうか。