2022年の秋頃からはじまったIさんの作品づくりは、「菊と、線や黒い抽象図像で構成された作品をつくりたい」という内容のご相談からだった。それからもうすぐ三年ほどたつわけだけど、この間、月に1回ほどのペースで通い続けてくれた。Iさんははじめの方、札幌に住んでいて、そこから東京まで来てくれていた。途中から東京に引っ越してきた。
菊と線と抽象図像、という希望の背景をどのように説明してくれていたか、その時のままの言葉は僕も、Iさんも忘れてしまっている。今年の3月ごろ、Iさんと自分の会話の内容を記録しておこうと思って、これまでの振り返りや現在感じていることを1時間ほど話して、書き留めた。その時の記録から抜粋する。
※最初に質問をしている文章が、朝日が話した内容。その後に行間が空いて返答している文章がIさんの話した内容。以降、行間が変わるごとに朝日とIさんの内容が交互に書かれている。
「2025/3/6 I さんと施術の前に話した内容の記録
今両腕ともに結構黑くなってきていると思うんですけど、満足感はありますか?
うーん、なんか、両腕に入れたみたいな、ある程度入れたなっていう満足感はあるんです けど、まだなんか着地できてない感じがして。 でも最近手の甲とかも黑くしてきているじゃないですか。そいうのは、満足に向かってきている感じはして。地面が見えてきているというか。それで言ったらこのまま黑くしていけば 満足するのかなっていうのは。ありますかね。
なるほど。このまま黑くしていくっていうと、?どこを?
それは僕もそう思うんですけど、自分の中でまだ中途半端感?まだ途中って感覚が拭えなくて。自分の性格上落ち着くとこまで行きたいんですけど。何が入っているとか、どういう柄が入っているとかは気にしていなくて。ただ近づいてはいるんですよ。
どこを黑くしていったら、落ち着くというところにいけるかはわからないけど、施術のたびに、近づいてはいる?
はい。
2 ヶ月前?ぐらいからはじめたことは不思議な感じがありますよね。色味として大きく黑さ がましたって言えるわけじゃないけど、黑くなってるって感じがあるような。
ありますね。
より黑くなったかはわからないけど、何かに近づいている?
うん、この菊とかも好きなんですけど、それ以上にせいちされた状態がみたい。
せいちされた状態?
なんていうんだろ。まあ、上から黑で塗りつぶして、じゃあねって感じの。眠っててくださ いみたいな。抽象的なんですけど。
はじめは菊を使って(図案をつくってください)ってことでしたよね
はい
その時からとにかく黑くしたいって希望を持っていたように思うんですけど、そうでしたよね。
はい。そうです。菊がありつつも、可能な限り黑くしてくださいって言ったような気がします。
その時っていうのは今振り返ると、菊を使いたいっていうのはどういう考えだったと思う?
菊はもともと好きな花で、。自分のおじいちゃんの葬式の時に、すごい綺麗だなって思って。初めて綺麗だなって思った花でした。その時の菊が。 でもいれてみて分かったんですけど、なんか馴染まなくて。どうしても自分のものっていうより、乗っかってるものみたいな感じがして。 でも黑いのって、自分だって感じがするんですよ。イレズミだ、タトゥーだって印象よりも、 腕が黑いって印象が強いのが心地いいんですよね。馴染んでくれてる。
じゃあ、彫ってみてはじめて、乗っかってる感みたいなのを感じて、同時に落ち着きたい、 みたいなのも生まれてきたって感じ?
そうですね。その気持ちが生まれたのは、一周目が彫り終わったあとなんですよ。多分その頃黑くしたいですって言いはじめてたと思うんですけど。一般的にウケは菊のままの方が良かったんですけど、すごい綺麗だねとか言ってくれるし。でもその落ち着きたいみたいな 気持ちがどうにもならなくて。ずっとそわそわしている。
現時点ではまだ着地できたって感覚はないのかもしれないけど、その時から少しづつ近づいてはいるわけですね。
はい。」
という話をした。

この写真は菊を使った構成として、ひとまずかたちになった時のもの

この記事を書いている現在(2025/08/29)ごろの状態。
Iさんとの作品づくりをはじめた時、「作品の完成」ということについての話も多くした。
僕(朝日)は、イレズミを彫りはじめた頃、「完成しました。」とか、「終わりました。」と、彫った人に対して言うことがすごく嫌だった。「完成した」とも思っていなかったし、「終わった」とも思っていなかったので、明確にウソだったからだ。そもそもイレズミに限らず、何かが完成したり、終わったと思うことはあまりない気がする。バイトが終わった時などは、「終わった〜〜」とは思うけど。特に、美術作品をつくっていてそう思うことは一度もないと思う。
もう少し、作品の強度を高めるためにやりたいこと、やってみたいことは目の前にいつもあり続けているし、絵画で言えば筆で着色していない時も、作品は空気に触れ続けていて、目には見えない変化が起こっている。酸化したり、ホコリを被ったり、を繰り返している。そのような時間を蓄積させることで出てくる印象がある。経年変化によって黒ずんだ仏画の印象がすごく好きだ。そのように考えていくと、「完成した」とも、「終わった」とも到底思えない。
しかし、イレズミを彫る人にご依頼いただいて、お金をもらい、そうしてつくっていく場合、「どれぐらいで完成するのか」と言う話ができなければ困ってしまう。どれぐらいお金がかかるかわからないと言うことになってしまうからだ。
と言うわけで、そのような経済的な理由で、「完成」というフィクションが必要になってしまう。自分の美術の諸関係では「完成」と言う感覚とはまだ出会ったことがないので、明確にフィクションなのだが。
そのようなわけで、仕方なく、最初の頃は「だいたい〇〇回ぐらいの施術回数で完成する想定です。」など、「はい、終わりました!お疲れ様でした。」など言っていた。とても嫌だった。
そうして、そのことに耐えきれなくなってきたころ、「イレズミにおいて完成という概念は扱う必要はないんじゃないだろうか」ということを公言していくようになった。主にインスタグラムの投稿概要欄に、「絵画など、他の美術作品でさえ、完成ということが曖昧なものなのに、生命という、変化するということが極めて重要な存在に刻み込むイレズミ制作の現場で、こうも簡単に完成というお約束を前提にするのはおかしいんじゃないか」というようなことを書いていた。
実際の現場では、
(朝日) 「だいたいこれぐらいの黒さやかたちになっていくには、〇〇回ぐらいの施術回数が想定されます。」
(彫る人)「なるほど、〇〇回ぐらいで完成って感じなんですね。」
(朝日)「いえ、そういうわけでは、、、。木みたいな感じですかね。だいたいこれぐらいの大きさになるには、これぐらいかかるという感じですけど、完成というと違うような、、、」
(彫る人)「はあ。よくわからないけど、多分大丈夫そうです。」
こんな感じでやっていた。彫りに来てくれた人には、「はて?」という思いを多分にさせてしまったと思うが(現在も随所でそうなのだが)明確なウソを日常的に使わなくて済むようになったので、とても嬉しかった。ウソをつくと、そのウソを前提に演技しなければならない。演技というのは、思ってもないことを言うわけなので、その都度何を言えばいいかと考えなければならない。私はその作業がとても苦手です。もちろん、ウソをついてしまったり、虚勢を張ってしまうこともありますが。しかし、明確なウソというのはあまりにも疲れる。
そんなような、「完成」という概念にまつわることをさまざまインスタグラムで書いていた時に、それを見て来てくれたのがIさんだった。
Iさんは、終わらないって、いいですねと言ってくれた。実際、この三年間少しづつ施術を重ね続け、ついには両腕が9割ほど黒くなった。彫り始めの頃から、少しづつ施術を重ねながら、変化や蓄積として作品をつくっていくという構えで制作をはじめたので、最初はやや低彩度の黒色で彫り、さらにそこに鮮やかな黒を被せるというような技法を基礎とした。その結果、現在の腕2本が全体的に黒くなるまでに、業界一般的な制作時間と比べると倍以上はかかっている。
制作がはじまるきっかけとなった、生命に刻み込むというイレズミの在り方に向き合うということについて、実際に見事に体現してくれている。
「2025/3/6 I さんと施術の前に話した内容の記録」 に戻り、Iさんの言葉で言えば、「着地」や、「そわそわ」だ。終わらない、というイメージから、実際にやってみたことで獲得した言語。「着地」「そわそわ」が指し示すものに実際に真っ直ぐに向き合っている。このようなイレズミのあり方に真っ直ぐに向き合うということは、イレズミを彫っている人でもあまりいないのではないだろうか。Iさんは根っこから抽象画家なのだ。
