暗の混合線を描いている時に、カンディンスキーは今やっていることとは逆で、関係線自体を描こうとしたんだろうなあということを思った。構図、構成で有名な葛飾北斎の浮世絵もどちらかといえば関係線自体を描画する対象で表そうとする意識が多いように思う。しかし書では関係線は暗であることがあまりにも当然のように出てくる。はじめに言葉があって、それを現す文字であって、それをさらに美しく書こうというものだからだろうか。文字の形の方を変化させるわけにはいかないので、描かない関係性との関係で文字の形を書くことが自然になったのだろうか。そのようなことを考えさせられとても面白くて、Dさんにも共有した。
詩は人心の発露せるものである。人の心にあるのが志で、これが言に発して詩となる。心中に感情が動けば自ずと言に現れる。言に現すだけでは足らず、そこでこれを嗟嘆し、嗟嘆しても足らず、更に声を長くして歌う。
と、詩経に書いてあった。自分もそうだなと感じる。これは画(絵や、線)も同じだと思う。では自ずと現れる関係線があるがそれは書かず、再帰的な関係で書く書とは一体なんだというのか。