少し前から、図案を手放すということ、完成のイメージを持たずに彫り進めていくということができるようになってきた。この大きな自分の変化があってから、資料の見方も変わったように思う。そのことが面白かった。
あと、つくるときの時間感覚の話もした。自分は、いれずみの部分だけでいえば五十年の時間感覚でつくりたいと思っている。二年に一回でも、五十年かければ25回彫れる。二十五回に分けられた彫りで積み上がった墨の彩から五十年という時間を感じ取ることができる、というようなものができるんじゃないだろうか。すごくやってみたい。しかしそれだけ時間をかけて作っても、身体が跡形もなくなってしまったら、自然に帰ってしまうというのがなんとも切なく、儚い。
常に変化を続け、再生もする有限な生命の中でやっているからできることだと思う。有限だからこそ五十年、百年と時間をかけたいと思わされる。切なくなることで、在るということが大切なことなんだということを感じ取ることができる。この話をDさんに聞いてもらい、大いに共感してくれたことがとても嬉しかった。
彫り終わった後、少し今後の話をした。水墨画のような写実的な草花の絵柄をここに彫り重ねるつもりでいる。今思う次第で、だいたいどんな感じになりそうか?どんな花を使いそうか?という話になった。
自分は今、崋椿系の絵を目指して勉強している。今年から出身地である愛知県・渥美半島での活動も始めた。地元の大画家が華椿系の中心人物、渡辺崋山だ。なんと、Dさんの奥さんは自分と地元が同じだった。出身中学が同じで、歳の差は3歳。渥美半島は電照菊の生産が盛んなのだが、奥さんの実家は菊農家さんなのだという。それで、Dさんはそれなら菊の花を彫るのはいいかもしれないと思ったと言っていた。自分もすごくいいのではないかと思った。そこで、渥美の菊づくりはあまり美的な品評会のような感じになっていっている気がしなくて、大量生産だけではなくて、作品として菊をつくるということが渥美でももっとやってほしいと少し前に思ったことを思い出した。そのことをDさんに話して、ぜひ渥美で作品としての菊を作ってくださいと言ったら、そういうのもいいかもしれないと言っていた。今日の始めに、今は東京に住んでいるけど、ゆくゆくは愛知に移り住んでもいいんじゃないかと思ったりするということも言っていた。
なんだか、すごく色々なことが錯綜した。図案を手放す、完成のイメージを持たずに彫り続けるということは、このような一つ一つの出来事ややり取りも作品に含みこめるのだなということを実感した。まだ実際に菊を彫るのかどうかはわからないけど、今日の濃密な出来事が関係した結果が現れるのだろうと思う。彫る前から平面でイメージを決めて、それを身体で再現するため、最短工程を効率的に進めていくやり方では、今日のような気持ちにはならないのだと思う。
少し前まで私は、美的な感覚を描こうとする時、抽象的な図像のみで表すことにこだわっていた。意味や物語から図像を選び出して、それを美しく描くのではなくて、意味や物語とは別に感じ取ることができる抽象的な図像のみを描くように意識していた。しかしその結果、不思議なことにどうしても葉っぱや花、木、岩、土、山、空、鳥、人、、、と、意味があるもの(概念化可能なもの)を描きたくなってしまうということが起こった。単純に、それらを「葉っぱや花」として見ずに、形や線、色としてだけ見ても、意識して抽象表現だけで描き現そうとするにはなかなか難しい豊かさがあると思う。
その話を聞いてもらって、美的なものの強度を高めるために、抽象的な図像だけを使おうとするのではなくて、対象のはっきりしている概念化されたものも同時に描くのはどうかという話に、一度なった。それで、Rtさんの思いの中から浮かんできたこととして、蝶を彫ろうかという話になっていったのだけど、なかなかすぐには蝶と抽象図像を同時に描こうとした時、そこに必然的な関係が感じられる形で成り立たせることは難しかった。
仮に、平面の絵で、蝶と抽象で調和をつくれたとしても、それをいれずみとして再現しようとすると、平面と身体の間に横たわるずれによって、どうしても平面のようにはいかないこと、が出てきてしまうと思う。それでもなお、平面を再現しようとする、ということにこだわれば、そこで出てきたずれは、しょうがないもの、できればない方が良いもの、として受け取っていくことになってしまうと思う。
そうではなくて、事前に確認するということができないいれずみというものを受け入れて、その上でイメージの力は広く炸裂させる。その結果、現実が返してきた応答、つまり実際に身体に彫って、いれずみとして見た時の感覚を受けて、またイメージの力を使う。そのような、想像上の完成に向かっていくのではなく、固定的なイメージを手放して、彫りながらつくる、ということを続けていきたい。なので、今この場で、想像上で蝶と抽象図像を成り立たせることができないなら、そこは彫りながらつくるということにしませんか、つまり、これからつくるいれずみの全体の構成自体をヒマにさせておきませんか、という話をしようと思って、もう一度Rtさんを彫っている場所に呼んだ。
その時は、はじめに話した時から一ヶ月半ほど期間が空いていた。Rtさんが来てくれると、やっぱり、抽象図像だけでつくっていきたいと言った。蝶など、対象のはっきりしているものを彫ると飽きちゃいそうだから。それに、抽象だけの方が私らしいなと感じるから、と言った。